範宙遊泳『バナナの花は食べられる 豊岡演劇祭ver.』公演中止のお知らせ
9月18日(土)・19日(日)に城崎国際アートセンターで上演を予定しておりました『バナナの花は食べられる 豊岡演劇祭ver.』は、兵庫県における緊急事態宣言発令に伴う豊岡演劇祭2021の中止を受け、全面的に中止とさせていただきます。
楽しみにお待ちいただいた皆様にはご期待に添えず、また中止の判断が遅くなりましたことをお詫びいたします。
演劇祭事務局からは、個別開催の判断はカンパニーの意向を尊重するとおっしゃっていただき、延期や別会場での上演、規模を縮小した別演目の上演なども検討しておりました。
劇団としては、2020年4月公演の中止から、延期や海外案件の中止も相次いでおり、思うように活動できていない現状がございます。
今回、少しでも可能性がある限りはなんとか創作を続けたいと検討しましたが、昨日19都道府県で緊急事態宣言が延長される方針との報を受け、感染収束の見込みも立たないことから、プロジェクトの進行を一時中断いたします。
仕切り直して、そう遠くない未来での再演を目指して準備してまいりますので、長い目でお付き合いいただけたら嬉しく思います。
そのあいだ、本作に関わった座組みメンバーそれぞれの活躍にも、ご注目いただけますと幸いです。
中止決定するまでに、それぞれの役割によって演劇との距離感も考え方も違うのだなと、あらためて思い入りました。
それぞれ価値観の異なる人々がそれでも一緒にひとつのものを作るのが演劇であり、困難な状況でもお互いを尊重しあいながら、作品を作らないと決めるプロセスもまた、演劇的だなと感じました。
コロナ禍において、関係者の安全を担保することと創作意欲を死なせないこと、どのように両立するのか、これからも模索してまいります。
最後に、開催に向けてご尽力いただいた豊岡演劇祭事務局の皆様に、心より感謝申し上げます。
ご予約いただいたお客様、気にかけてくださった皆様、劇団の決定を受け入れてくれた座組みの皆様にも、ありがとうございました。
2021年9月9日 範宙遊泳プロデューサー 坂本もも
上演を待っていてくれたみなさま
無念です。
ですが、いかなる困難も怒りも絶望も、そしてこの無念さもすべて作品のエネルギーに変え再会する日まで溜めておきます。
ここで上演できなかったという事実が、必ず次の作品の顔となって表れているはずです。
今回はみなさんに会えずとても残念ですが、次会える時はきっといまより状況は少しマシになっているはずです。その日までどうか、ご安全にお過ごしください。
ご縁が続くと、信じて頑張ります。
山本卓卓
シーン1をYouTubeで無料公開しています!
豊岡演劇祭2021公式プログラムとして、早くも再演が決定いたしました!
範宙遊泳『バナナの花は食べられる-豊岡演劇祭ver.-』
作・演出:山本卓卓
出演:埜本幸良 福原冠
井神沙恵(モメラス)
入手杏奈
細谷貴宏
三橋俊平
2021年9月18日(土)・19日(日)
城崎アートセンター(KIAC)
2020年5月からオンラインをも上演の場として取り組んできた[むこう側の演劇『バナナの花』]を起点に、新たな出演者を迎えて今年3月に初演した最新作を、早くも再演いたします。
フィクションで現実を乗り越え生きていこうとする人々の人情劇。
初の兵庫公演です。
ご期待ください!
この1年、演劇が形を変えながら、ゆっくり進化してゆくのをみていました。創作者の智慧と努力と負けん気とでもいいますか、その結晶は、やや嘲笑ぎみに”オンライン演劇?ワラ”などと言われることも少なくなっている気がしています。演劇が変わりつつあります。この変化の時期をせめてポジティブに、先の時代をみつめながら、つくりました。人情についての物語です。ぜひご覧ください。
山本卓卓
日程
9月
18日(土) 17:00
19日(日) 11:00
※上演時間約3時間(休憩あり)
会場
城崎アートセンター(KIAC)
〒669-6101 兵庫県豊岡市城崎町湯島1062
アクセス:JR城崎温泉駅から徒歩15分
感染症対策にまつわるご案内
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※本公演は、緊急事態舞台芸術ネットワーク「舞台芸術公演における新型コロナウイルス感染予防対策ガイドライン」 に準じて創作・上演いたします。また、豊岡演劇祭と城崎アートセンターが定める感染症対策を遵守いたします。
※客席は隣席と触れ合わない十分な間隔、最前列とアクティングエリアまで2mの距離を設け、適宜消毒作業を行います。
※感染症拡大などのやむをえない理由により、内容の変更や公演中止の可能性がございますこと、あらかじめご了承ください。
ご来場のお客様へお願い
●ご来館前にお家で
※必ず検温してください。37.5℃以上の場合はご来館をお断りいたします。
※マスクなしではご入場いただけません。忘れずにお持ちください。上演中も着用してください。
●当日受付で
※検温
非接触型体温計で検温させていただきます。
※手指の消毒
設置してありますアルコール消毒液で、手指を消毒していただきます。
※もぎり
チケットはお客様ご自身でもぎっていただきます。
●スタジオ内で
※換気
開演前と休憩中、ドアを開放して換気します。
お客様にはご負担をおかけいたしますが、ご協力のほど、何卒よろしくお願いいたします。
クレジット
作・演出:山本卓卓
出演:埜本幸良
福原冠
井神沙恵(モメラス)
入手杏奈
細谷貴宏
三橋俊平
音楽:大野希士郎 美術:中村友美
照明:富山貴之 音響:池田野歩 音響操作:栗原カオス
衣裳:臼井梨恵 舞台監督:櫻井健太郎
宣伝美術:たかくらかずき
広報映像:たけうちんぐ
制作助手:川口聡 制作:藤井ちより
プロデューサー:坂本もも
協力:プリッシマ モメラス
合同会社Conel
モモンガ・コンプレックス
合同会社ロロ
急な坂スタジオ
ローソンチケット
初演時クリエイションメンバー
演出助手:中村未希 出演・稽古場代役:植田崇幸
配信監督:たけうちんぐ
助成:公益財団法人セゾン文化財団(山本卓卓フェロー)
企画制作・主催:合同会社範宙遊泳
本公演へのお問い合わせ
090-6182-1813
hanchu.ticket@gmail.com
山本卓卓 Suguru Yamamoto
作・演出
劇作家・演出家。範宙遊泳代表。1987年山梨県生まれ。
幼少期から吸収した映画・文学・音楽・美術などを芸術的素養に、加速度的に倫理観が変貌する現代情報社会をビビッドに反映した劇世界を構築する。
アジア諸国や北米で公演や国際共同制作、戯曲提供なども行い、活動の場を海外にも広げている。
『幼女X』でBangkok Theatre Festival 2014 最優秀脚本賞と最優秀作品賞を受賞。
公益財団法人セゾン文化財団フェロー。急な坂スタジオサポートアーティスト。
アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)2018グランティアーティストとして、2019年9月〜2020年2月にニューヨーク留学。
2020年5月に「むこう側の演劇」を始動し、オンラインをも創作の場として活動している。
撮影:雨宮透貴
埜本幸良 Sachiro Nomoto
出演:穴蔵の腐ったバナナ
俳優。1986年生まれ。岐阜県出身。2010年より範宙遊泳に所属。
身体的な演技に定評があり、観客に強い印象を残している。
舞台の撮影・舞台映像の製作・リトミック・中高生への演劇WSなど幅広く活動。
主な外部出演作に、柳生二千翔『アンダーカレント』(作・演出:柳生二千翔)、
CHAiroiPLIN+三鷹市芸術文化センター 太宰治作品をモチーフにした演劇公演 第14回『ERROR~踊る小説4~』(原作:太宰治 振付・構成・演出:スズキ拓朗)、笛井事務所 『愛の眼鏡は色ガラス』(作:安部公房 演出:山崎洋平(江古田のガールズ)、突劇金魚『漏れて100年』(作・演出;サリingROCK)などがある。
福原冠 Kan Fukuhara
出演:百三一桜
神奈川県出身。明治大学を卒業後、活動を開始。
2014年より劇団「範宙遊泳」に加入、以降国内外での公演に参加。
2015年より演劇ユニット「さんぴん」を始動、『君の人生の断片は、誰かの人生の本編だ』をキーワードに「人を通して土地を描く」創作もしている。
主な舞台出演に、KAAT『人類史』、KAAT・KUNIO共同製作KUNIO15『グリークス』、東京グローブ座/シーエイティプロデュース『HAMLET -ハムレット-』、篠田千明『ZOO』、木ノ下歌舞伎『黒塚』、FUKAIPRODUCE羽衣『よるべナイター』、ヌトミック『ネバーマインド』。
TVCM スタッフサービス「意識高い系編」、NHK Eテレムジカ・ ピッコリーナ「奇跡の二人」「空気のように」テレビ東京ゴッドタン「マジ芝居選手権」「ストイック暗記王」など。
所属事務所はプリッシマ。
撮影:bozzo
井神沙恵 Sae Igami
出演:レナちゃん
1986年12月24日生まれ。愛媛県出身。早稲田大学第二文学部卒業。
大学卒業後、古書店にて勤務。2012年より俳優として活動開始。
2014年、松村翔子作演出短編作品『色は匂へど、』に出演し、2015年モメラス第一回公演『色は匂へど、』に出演。以降、モメラスメンバーとして公演に参加、現在に至る。
モメラスの他、MU、月蝕歌劇団、ナカゴー、鵺的×elePHANTMoon、フロアトポロジーなど東京の小劇場を中心に活動中。
映像作品では池田千尋監督『ミスターホーム』『東京の日』などに出演。
あきききかく公演『真っ白なグランドを避け下駄箱で 詠むHB31文字』(米内山陽子作演出)に短歌協力。
撮影:伊藤星児
入手杏奈 Anna Irite
出演:アリサ
ダンサー・振付家。
幼少よりクラシックバレエを学ぶ。桜美林大学文学部総合文化学科卒業。
在学中よりコンテンポラリーダンスを木佐貫邦子に師事。
ソロ活動を主軸にダンサーとして近藤良平、岩渕貞太等の作品に出演。
多数の音楽PV(world's end girlfriend、9mm Parabellum Bullet、YUKI、スキマスイッチ等)への振付・出演、音楽家とのコラボレーション等を行う。
近年の演劇公演では『イヌビト~犬人~』(20年、長塚圭史作・演出)、『アーリントン〔ラブ・ストーリー〕』(21年、白井晃演出)に出演。
「第1回ソロダンサフェスティバル2014」最優秀賞受賞。「SICF19 PLAY」住吉智恵賞受賞。
桜美林大学非常勤講師。
撮影:金子愛帆
劇評|バナナの花はどんな味?
佐々木敦
格差を解消しよう、とか、差別をなくそう、とか、多様性を促進しよう、とか、世界じゅうの皆を幸せに、とか、ひとに優しく、とか、それぞれそれだけ取ればまったくもって正しいとしか言いようがないことどもをただ単に声高に述べ立てるだけだったら、そんなのは誰にだってできる。当然のことながら問題は、じゃあどうやってそれらを実現するの? ということなのだし、と同時にすこぶる厄介なのは、実現可能性云々を差し置いてそれらを声高に述べ立てるだけでも、なんとなく世界の正しさに貢献しているような気になってしまうということだ。
かといって、世界やら国家やら社会やらの負の部分にちゃんと目を向けよう、と思った途端に、ひどく辛くなってしまう。真摯な者ほど、誠実な者ほど、繊細な者ほど、やられる、辛さのあまり、反転して露悪趣味に走ってしまう者もいる。たいへん残念なことだが、世界が刻々と悪くなっていっていることは間違いない。だが、その事実を認めることは、辛い。どうしようもなく辛いのだ。むろんスルーすることも、見ないふりをすることも、できるわけではない。だからなんというか、気づいてしまった真面目な人間ほど、余計な(といってもそれは甚だ正当なものなのだが)苦悩や絶望、場合によっては実害や傷を蒙ることになってしまう。困ったことである。
範宙遊泳の山本卓卓は、少なくともある時期から、あるいはそもそもの始めから、毅然として、だが欠片ほどもヒロイックにではなく、世界のネガティヴィティの体現者であり犠牲者であるところの「持たざる者たち」や「外れた者たち」の側に立って演劇を造ってきた。ある時期から、というのは、たとえば『幼女X』(2013)あたりから、ということになる。『その夜と友達』(2017)、『もうはなしたくない』(2018)、『#禁じられたた遊び』(同)、『うまれてないからまだしねない』(2014、2019)といった範宙遊泳の作品群において、山本は一貫して「持たざる者たち」や「外れた者たち」を劇の中心に置き、彼ら彼女らがなぜ「持てず」「外され」てしまうのかについて、リアルから目を背けることなく、だがフィクションや寓話やファンタジーが持つ有効な機能を自在に援用しつつ懸命に思考し、終わりなきデッドエンドから、抜け出す、ことは哀しいがもう不可能なのかもしれないが、それでも敢て身も蓋もない言い方をしてしまうなら、要は「死なずに済むにはどうしたらいいのか」をひたすら探ってきたのだと思う。とはいえ、範宙遊泳の劇では、死んでしまう者たちもたびたび描かれているのだが。
そして、コロナがやってきた。
ありとあらゆることが甚大な、ことによったら致命的なまでの影響を受けた。芸術文化、演劇も例外ではない。ここでは「演劇」と「コロナ」にかかわるさまざまな問題には立ち入らないが、ともかく多くの演劇人、演劇作家が、活動を封じられることになった。山本卓卓もそうだったのだろう。彼は2019年9月から2020年2月まで、アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)の助成アーティストとして米国ニューヨークに滞在した。すぐわかるように、つまり彼が帰国してから日本でもコロナ禍が本格的に始まったということだ。予定通りにいかない活動の代替アイデアとして、山本は「むこう側の演劇」としてオンライン動画でオリジナル作品を発表し始める。その中の『バナナの花』という連作が、久々の舞台上演『バナナの花は食べられる』になった。
大作である。たぶん範宙遊泳のこれまでの作品の中でいちばん長い。会場で販売していた戯曲のあとがきで、今回は上演時間の長さを気にしないで書いたと述べていた。いまだコロナが去らぬ(どころかますます状況は混迷を極めている)さなか、これはもちろん「敢て」ということだろう。山本には書きたいことがたくさんあったのだ。そして奇跡的に、というべきかもしれないが、『バナナの花は食べられる』は「自粛」や「要請」の隙間を縫うようにして公演が実施された。それは範宙の、山本の、まぎれもない現時点での到達点であると同時に,コロナへの返答でもあった。
すぐさま断わっておかねばならないが、『バナナの花は食べられる』はいわゆる「コロナ禍の演劇」とは大きく趣きを異にしている。演劇でも真っ向からコロナを取り上げた作品が少しずつ出てきているが、山本がやったのは、それとはちょっと違っている。むしろ「コロナ」を特別視しない、という姿勢さえ感じられる。だが、それでも劇中の時間の流れの中でコロナはやってくる。それはつまり、コロナの到来を決定的な出来事として、すなわちその「以前」と「以後」の時間を暴力的に分割してしまうようなものとしてではなく、いわば一日二十四時間のスピードで淡々と進む、だがどうしようもなく不可逆的な時間の流れのうちに「コロナ」を位置付ける、置き直す、ということだ。この劇の物語は、まず「2018年」から始まり、いったん「2017年」に戻ったあと、時々過去のエピソードを挟みつつ流れていって、「2020年9月30日」のひとつの出来事を経て、最終的には「2021年3月24日」で幕を閉じる。この地球上の(おそらくは)誰ひとりとしてコロナの到来を想像し得ていなかった頃から、世界が一変してしまった2020年を過ぎ越して、他ならぬ『バナナの花は食べられる』が東京の森下スタジオで初演される日の前日まで。時間は容赦なく流れ去っていくのだということ、それでも過去は、記憶として、思い出として存在しているのだということ、この劇の影の主役が「時」であることは疑いない。山本卓卓は、コロナの前から悲劇は存在したし、コロナの後だって完全な悲劇ではない、と言いたいのだと私には思えた。
例によって奇妙なあだ名(?)を名乗り/呼ばれるこの劇の主要登場人物は五人。前科一犯の元ネット詐欺師で、のちに探偵業を営む個人事業主となる「穴蔵の腐ったバナナ」、彼とマッチングアプリで「女性」のフリをして知り合って親友になる「百三一桜」、彼と恋仲になるセックスワーカーの「レナちゃん」、彼女を働かせ貢がせていた、売春やドラッグの仲買人の「クビちゃん(ミツオ)」、「穴蔵の腐ったバナナ」と禁酒会で知り合い、彼が想いを寄せる「アリサさん」。およそ四年の時間経過の中で、この五人の関係性は変化していく。その変化のありようは随所で観客の期待や予想を越えていて、茫然とさせられつつも同時にああやはりこうなるしかないのかと溜息をつかされるクライマックスを経て、思いがけないラストシーンへと物語は突き進んでいく。その仔細までは語れないが、ひとつだけ言えることは、傷つかない者はひとりもいない、ということだ。思えば山本卓卓の劇はいつもそうだったのだが、この劇でも明確に「持たざる者たち」で「外れた者たち」である人物たちは誰も普通の意味では幸福にならない/なれない。なぜなら、世界は刻々と悪くなっていっている、からだ。だがそれでも、救いの切片がないわけではない。希望が絶滅してしまったわけではない。とはいえ一発逆転とはいかないし、ものは考えようだ、などと言いたいのでもない。ある意味では、やっぱり不可能でしかないのかもしれない救済を、この劇はなんとかして描こうとしている。ではその救いは誰が齎すのか、舞台で口にされることはないが、戯曲ではその者は「名もなき者」と書かれている。それは人が死ぬ時が見える「ミツオ」の予知の通りにあっけなく死んでしまった「穴蔵の腐ったバナナ」が転生(?)した姿だ。そしてこの「名もなき者」は、やはり非道な運命により今にも命を落とそうとしている「アリサさん」を救う。自分はもう死んでいるのに。「名もなき者」が「持たざる者たち」と「外れた者たち」の別名であることは言うまでもない。
先走ってしまった。ことによると観客の幾らかにとってはかなり意外、というか唐突に映ったのかもしれないラストはーー作劇的にも、メッセージとしてもーーもちろん重要だが、そこに至るまでの長い長いプロセスのほうがほんとうは大切なのだと思う。バラバラだった、繋がっていても歪な繋がりでしかなかった六人が、不思議な成り行きで互いに関係し、性愛も恋愛も含んでいるが名づけるならば友愛と呼びたい結びつきを蓄えていって、大袈裟な言い方をするならば、世界の酷薄さに立ち向かおうとする、そんな物語。むろん、それは結局のところ負け戦というか不戦敗でしかないのだが、だからといって何もしないのは厭なのだ。繰り返すがこれはしかしヒロイズムではない。むしろとことん絶望し、とことん諦めたその先の果ての向こう側にふと仄見える意志のようなもの。ゆっくりとそれが育ってゆく。あるいは、それが出現した途端に、ああ、まだこんな力が残っていたんだ、ではなくて、ああ、いつのまにかこんな力が宿っていたんだ、と思って自分自身驚いて、だが少し嬉しくなる、そんな感じ。
「バナナの花は食べられるんだぞ!」と「穴蔵の腐ったバナナ」は言う。そうなんだ、そうなのか、と私は思った。でもたぶん食べたことはない、はずだ。バナナの花の味はどんなだろうか。穴蔵の腐ったバナナの花も食べられるのだろうか。食べようと思えば食べられるのだろうか。なんだって食べられる。食べたとしたら、それはどんな味がするのだろうか。腐っていても、それはちゃんとバナナの花の味だろうか?
バナナの花の味を私は知らない。それはつまり、食べたバナナの味がそれだということだ。
そしてこれは諦念でも絶望でも、断じてない。
山本卓卓は渾身の傑作を書き上げ、そしてそれは困難な状況と厳しい条件の下、力強く美しい舞台として上演された。そのことをよろこばしく思う。この切実にして尊い試みが正当な評価を受けることを願う。
佐々木敦(ささきあつし)
思考家。音楽レーベルHEADZ主宰。文学ムック「ことばと」(書肆侃侃房)編集長。
30年以上にわたって芸術文化の複数の分野で執筆や言論活動などを行っている。
演劇関係の著書に『小さな演劇の大きさについて』(Pヴァイン)、『即興の解体/懐胎』(青土社)がある。
その他の近著として『これは小説ではない』(新潮社)、『それを小説と呼ぶ』(講談社)、『批評王』(工作舎)、『絶体絶命文芸時評』(書肆侃侃房)、『私は小説である』(幻戯書房)、『この映画を視ているのは誰か?』(作品社)などがある。