「劇場を剥奪された演劇に演劇は可能か」という問いから出発した、範宙遊泳の「むこう側の演劇」。
オンライン上をも演劇鑑賞の場ととらえ、画面の向こうがわに観客を想像して創作していきます。
『バナナの花』に続く第二弾は<旅シリーズ>と題し、様々な手法で旅を作り出します。
#1は『無音の旅』。文字で紡がれる旅に、どうぞお出かけください。
範宙遊泳 むこう側の演劇
シリーズ旅の旅 #1
『無音の旅』
作・演出:山本卓卓
2020年10月23日(金)20:00公開
料金:無料
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制作:坂本もも
助成:公益財団法人セゾン文化財団
企画制作:合同会社範宙遊泳
実験演劇とか実験的演劇という言葉があまり好きではありません。完成形を提示するのだと考えて創作を行うからです。実験といえばまるで途中経過のようで、治験の段階といった耳障りがして、それは稽古場で終わらせるべきだとの思いがこれまでありました。
だけれども、すくなくとも、経験則からいっても、良き途中経過に良き完成が待っていることを疑いはしません。また言うなれば人生など死に際まで限りなく途中経過の連続にすぎないのだという旅人のような心が、私の作品創作における姿勢にダブらないとも言えません。白状しますが、私は演劇創作において壮大な夢を描いています。それは例えていうなら世界一周を徒歩と手漕ぎボートで達成する、とでもいうような無茶な夢です。しかしそれをしてみたいという想いに駆られ続けている、駆られ続けてここまでやってきたことは確かなのです。
そして私はいま”むこう側の演劇”というコンセプトのなかで、その壮大な完成形を提示するには、膨大な過程をも提示する必要があると思い立ちました。それゆえ、むこう側の演劇シリーズの第二弾として”旅の旅”という(あえてこういう言い方をしますが)「実験的な」作品群を発表してゆこうと決めました。壮大な夢の記録、旅の記録、途中経過をご覧ください。楽しんでいただけたら幸いです。
それでは、ボン•ヴォヤージュ!
山本卓卓
「むこう側の演劇宣言」
劇場を剥奪された演劇に、演劇は可能か。という問いに私は直面している。あるいは現代演劇は、劇場という創造的かつ想像的な空間に共依存しすぎていたのではないか。そんな風にさえ思える。2019年までは東京オリンピック後の日本をどう生きるか、が議論され考え巡らされてきたはずの演劇界隈は、いま、その議論の記録さえ忘れ去られ、未来の演劇の理想像を大きく軌道修正しなければならなくなっている。劇場経営者にとっては、どのように劇場での演劇を再開すればよいか、そのガイドラインの作成が未来を左右している。私のような劇団を率いる者にとっては、いかに俳優やスタッフへのリスクを減らしながらクリエイティビティを保ち続けることができるか、つまりこのような状況においてさえも演劇をつくるという姿勢を示せるか。劇作家にとってはむしろ、いま、この現代社会こそ見つめるべきことの多さに気付き、筆を走らせているかもしれない。
例えばレコードやラジオの登場によって、それまで生演奏こそが音楽と思われていた音楽界に革命が起こった。映画館での上映こそが映画だと思われていた映画界にはストリーミング配信が革命を起こした。小説も電子書籍の登場によって物量から解放された。では演劇は?といえば演劇の定義を覆すかのような技術革新がこれまでに起こったわけではなかった。演劇は"場”に強く依存してきた。劇場公演であろうと野外公演であろうと、観客がその場へ赴き観賞するものが演劇である。その制約から演劇が解放されることはなかった。そしてそれはこれからもないだろう。場の共有こそが演劇の根源的なアイデンティティなのだ。
であれば、オンライン上のアバターだけが存在するような空間つまりは”場”でさえも、演劇は可能であるとはいえないか。いま台頭しつつあるZOOM演劇なるものも、ZOOMが”場”であるからこそ、観客が集い演劇が成立しているのではないか。観客が赴く場所は、劇場であろうと野外であろうとオンラインであろうと、場であることに変わらないのだ。劇場を剥奪された我々は、新たな場をみつけ、その場所を劇場とすることができる。かつて河原にシートを敷いて「さあこれから面白いことやりますよ」と大声出してパフォーマンスし物を乞う、誰が決めたのかわからない”演劇”はそのようにしてできあがってきた。寺山修司はかつて街を劇場にした。つまり、いかなる状況下においても、我々はそこにシートを敷きさえすれば演劇を行うことができる。
たしかに、新しい形式の台頭に訝しがり嫌悪し時に揶揄しさえするのが人である。上述のレコードの登場、ストリーミングの登場、電子書籍の登場の裏には、もともとのスタイルを愛すればこそ新しい形式の登場を歓迎しない人々がいたことを、なにもマーティンスコセッシがNetflixに対して疑問を示した一件を参照せずとも想像に難くないと思う。私自身、脊髄反射的にオンライン演劇を行うということはできなかった。抵抗があったからである。この抵抗が解けるまでに熟考が必要であった。そして熟考の結論は、新たな演劇の形式を追求することに迷わないということであった。
これから、範宙遊泳はオンラインをも”場"と考え、演劇を行う。なにもこれは、範宙遊泳はYouTuberになりますという宣言ではない。それは断じてない。その場しのぎの、劇場公演が再開されるまでの”繋ぎ”としての活動でもない。それも断じてない。私たち範宙遊泳は劇場を剥奪されたとしてさえ、演劇を続けるという宣言である。また、劇場が再開されたとしても、オンライン上に劇場をつくりだすことをやめるつもりはない。という宣言である。
なんだかいささかかしこまった文章になってしまいましたが。この試みを「むこう側の演劇」と題して活動してゆこうと思います。むこう側の演劇、よろしくお願いします。いつもの演劇、が戻ってくることを望んでいることに変わりはありません。演劇は一度死んだのです。でもこれから蘇ります。
2020年5月某日 山本卓卓
むこう側の演劇の条件(2020年5月時点)
1. 生であるかどうかは重要ではない。言い換えれば”生でなくとも”演劇を追求しなければならない。
2.
パフォーマーが観客を意識し、観客にみられている想像をしていること。例えばレンズの奥に客席がある。そして実際に、鑑賞者が存在すること。
3. 時間の改変をアプリや編集ソフトを用いて行わない。つまり基本的に一本撮りでなければならない。
4. 演劇的な想像力・身体の飛躍がなくてはならない。例えば屋外の芝生の上で撮影or配信を行う場合、芝生の上を家のリビングにするなどといった見立てが、映像の編集に頼って合成などで表現されるのではなく、あくまで人物や物の配置や俳優の想像力、演技・身体表現で見せることが思考されていなければならない。
5. 4のうえで、たとえば歌舞伎における書き割りのように合成が用いられる場合それは許容される。
*演劇的表現とは置き換え、見立て、への目配せのことである。
むこう側の演劇
『バナナの花』
作・演出:山本卓卓
出演:埜本幸良 福原冠(#1〜#4)
井神沙恵(モメラス)(#3〜#4)
細谷貴宏(#4)
編集・音楽:埜本幸良
手話レクチャー(#4):南雲麻衣
イラスト:たかくらかずき
制作助手:川口聡
制作:坂本もも
助成:公益財団法人セゾン文化財団
企画製作:合同会社範宙遊泳
2020年6月5日(金)20:00 公開
2020年7月3日(金)20:00 公開
2020年8月7日(金)20:00 公開
2020年9月4日(金)20:00 公開
2020年9月30日午後4時21分に配信を終了しました。
料金:無料
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